「すまないな」
畳に胡座をかいて座る辻が、をがわを見上げて言った。
をがわが部屋を出た後に、畳に横にされていた状態のつなきを発見したのだろうか。
つなきは清潔に敷かれた布団の間に、気持よさそうに身をくるめていた。
両腕を掛布団の上に投げ出して、首をやや傾げてをがわを見つめる。
「をがわ…」
「平気か」
「風が吹いていたから平気だと思ったのだがな。油断した」
見るに、つなきはやはり強い陽射しにやられたようだった。水分補給をし、このまま休んでいればじきに治るだろう。三人の意見は合致した。
つなきは身体を起こし、をがわからスポーツドリンクをコップで受け取る。ストローを差し出すと、少し驚いたようだったが、すまないなと言って微笑み指先で受け取った。細い管を通って、ゆっくりと減っていくその半透明の液体を、をがわは何も考えずに見つめていたくなる。
辻は手持ちの文庫に軽く目を通し始めた。
ふと、つなきの足元へをがわの目が行った。
布団に隠れて中は見えないが、若干不自然に盛り上がっている。
「ああ…辻が入れてくれた」
をがわの思ってる事を察知したつなきは、彼の疑問の種明かしをする。掛け布団をめくると、裸足の両足の下に、二つに折り曲げられた座布団が一枚あった。
「頭より足を高くした方がいいと聞いたからな。…をがわも色々とすまない」
「構わん。そのまま休んで治せ。まだ3日ほどここで過ごすのだからな」
「……感謝するぞ」
もう寝る、と言うとつなきはをがわの方へ向けていた首を戻し、陽が透けそうな障子を見るように身体を戻した。
辻はチラリとつなきの様子を伺うも、また目線を本に戻した。
つなきが眠ると宣言しても、まだここにいるらしい。つなきも辻も、それを気にする様子は無い。
をがわは、充分に飲み物が足りていることをチラチラと確認すると、居心地が悪くなって部屋を後にした。
タオルで汗を拭いたのも、布団を敷いたのも、寝場所を移動させたのも、全て辻がやったのだろう。
着替えてはいなかったが、若干つなきの衣服が緩んでた。これからあの部屋で着替えるのかもしれない。
だが、そんなことはすでにをがわの範疇ではない。外で寝ていた者に体調が優れない状態だと判断を下し、直ちに涼しい場所へ移動させ、栄養補給の補助を行った。対応はそれで充分ではないか。
ふと、をがわは自分が当初座布団を探していたことを思い出した。おそらくあの和室の押入れにいくつか収納されていたのだろう。
取りに戻るには、躊躇してしまう。
おそらくつなきは今頃眠りについただろう。その傍らで、辻は文字の詰まったページを捲るのみだろう。
それでも消えないこの情念を、をがわは娼嫉だと知っていた。
空が青く、紫色に変わって行く。
夜も七時をまわると、あたりは暗くなっていった。
昼過ぎに三人が揃った和室に、食台と料理が用意されていた。
彼らは肉と野菜と魚の分類ならば肉が最も好きだ。日頃から雇っているシェフや配膳係によって色とりどりに飾られた料理から、牛のフィレ肉を好んで賞味する。
旅の席だからと言って普段より騒ぎ立てることはないが、気分よく夕餉の時間を過ごすことができた。
食事も終わり、簡単に料理を下げさせるとそのまま杯酌の時間となった。
普段は強めの洋酒やカクテル、ビールを嗜んでいるが、折角日本式の家屋で滞在するのだからと日本酒や焼酎を用意した。
辻も、をがわも、つなきも酒は飲める方だ。
「どうだ?」
お酌を覚えたてのつなきが、得意そうにをがわに燗酒を用意する。
「ぬるいな」
「人肌程度がちょうどいいのだぞ」
「ぬる燗か」
「ふふ…今は8月だ。わざわざ熱いものを用意する必要もあるまい」
忍び笑いをするつなきの前に、辻が冷えた日本酒を用意する。
つなきは何もリクエストをしていないが、普段は進んで飲まない酒のため、勝手に用意された酒の方が飲みやすかった。
をがわは辻に、徳利から日本酒を注ぐ。いかにも辻に合いそうな辛口の酒を選んだ。会釈の代わりに、ぐい呑みを持ち上げた。
乾杯。
酔いが回っていくに連れ、座敷の空気も変わる。
三人で強めの酒を消費していくのは初めてのことであったので、お互いの酒癖を知らなかった。
辻とつなきは似ている。顔色は変化せず、気分があからさまに高揚したり落ち込んだりすることは無いが、着実に酔っていくタイプだ。違いを挙げるとすれば、辻は酔いが進むと会話の端端で黙りこんでしまうことがある。受け答えは普段と変わらないが、テンポがやや遅れる。つなきは「オレは酔っていないからな」という無言のオーラを纏いつつ、瞬きの仕方がいつもよりも眠そうにトロンとしていたり、微笑を浮かべて頻繁に周りに話しかける。
をがわは、三人の中では一番酒に強いタイプだ。量も飲めるし、顔色も耳が赤くなるだけでほとんど変わらない。普段よりは幾分柔らかい雰囲気になる。
一見軽く飲んでいるように見える。が、そういった事情を知っているならば、もしくは開けた瓶や徳利の数を目にしていたならば、彼らが見た目以上にへべれけまっしぐらな事に気がつくだろう。
つなきが畳に身体を丸めてうつ伏せるように、横になる。
「眠いようだな」
辻がをがわに言う。
「…眠くはない。さっき十分眠った」
二の腕で顔の半分を隠し、目を瞑りながらつなきがをがわの代わりに答えた。
つなきの手がにゅっと伸びる。をがわの膝に。
乗せたばかりだというのに、早くもその手は膝から滑り落ちそうになっていた。
「……なんだ?」
「ふふ…」
つなきが楽しそうに笑う。しかし、彼は楽しいから笑っているのではないかもしれない。
酩酊による、一種の生理的な笑いなのかもしれない。
笑うから、楽しい。
をがわには、つなきの手を払いのけることなど到底できない。
むしろ、落ちて行く指先をここに留めておきたかった。
触れられた部分から、波動のように温い熱が全身に広がるようだった。
をがわのズボンの上から、つなきの指がゆっくりと滑り落ちていく。
ほんの一瞬であるが、その動作は、まるで母親が我が子を優しく撫でるような手の動きだった。
重力によって畳につなきの手が叩きつけられそうになる寸前。ガシリとつなきの手首を掴んだ者がいた。
「…辻?」
をがわが驚く。
辻はをがわの目を見て、したり顔でほくそ笑む。
をがわは、自分よりも辻が優越感を味わったから笑ったのだと思ったが、本当のところはそうではなかった。
「そっちは頼んだぞ」
辻は、つなきの上半身を優しく起こした。そして、ややあってをがわに押し付けた。
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